自己肯定感の高め方〜最小の努力で

 「自己肯定感があげられない」というポストがXのTLで散見されます。私は、自己肯定しています。出来る限りですが、その努力というか、癖付けをしています。そのやり方は何度か、このBlogでも取り上げてきましたが、今回は、それに特化した形で投稿してみたいと思います。

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自己肯定感って何?

 「自己肯定感」よく聞く言葉ですが、実際の意味は「ありのままの自分を認めること」とされますね。失敗しても「まぁ良し」、怒られても「これで成長できる」、嫌なことを言われても「まぁ、言いたい人には言わせておこう」なんて事も自己固定感を高めることだと思っています。
 この自己固定感が高まってくると前向きになれたり、チャレンジすることに臆することが減り、主体的に生きることができるようになります。
 これ、どこかで聴いたことがありませんか?特にメンタルクリニックに通っている人の多くは「認知行動療法」として、知られていることとかなりの部分が重なります。
 逆に自虐的になっていると、自己固定感が下がってしまい、過去の失敗を悔やんだり将来の不安に押しつぶされそうになります。
 私だって何度も書いていますが、過去の嫌なことを思い出す事も沢山ありますし、将来への不安は沢山あります。ただ、それを押し止めるためにスイッチ(「Purge」と呟くことが私のスイッチです)を作り、またマインドフルネス瞑想と言われることをやったりして、自分を否定する材料、ブロックと良く言われる物を少なくとも後に回して、今を一生懸命生きるように、楽しんで生きるようにしています。

その言葉、自分を責めていませんか?

 さて、先程書いたように「自虐」ですが、これはネゲーションと言われるアファメーションの逆作用が起きます。「私が失敗したら怒られるに違いない」「どうせ、これは私にはできない」「いつも、忘れ物をして迷惑かけているから」なんて事を言っていたりすると、自分にネゲーションの魔法を掛けているようなものです。更に言えば「私のせいで」なんていうのもありますよね。
 そして、IT屋でリスク管理なんかをやっていると「頑張る」もネゲーションになっていたりします。この言葉が出る人って、本質的に何をやれば良いかが判っていなかったりするんですよね。だから目的語もなく「頑張る」を言い続けていると、段々「頑張れていない自分」が浮かび上がってきます。だからリスク管理をする時にプロジェクトメンバーに状況を聴いた答えが「頑張ります」だと「やべーな」と言う事を理解することが重要になります。
 この様に普段、何気なく言っている言葉の中にも自虐、ネゲーションとなる言葉が潜んでいます。また、「甘いものは食べない」「忙しくしない」なんていうのも、本質的には自虐要素を服でいると思っています「甘いもの」「忙しい」が言葉の幹になっていて、この言葉が強く自分に印象付けられてしまうんですね。だから「健康的なものを食べよう」「自分の時間を作ろう」なんて簡単な言葉の入れ替えだけで自己肯定感が上がってきます。

ホメ療法と自分を大切にすること

 私は、自分を愛す事が苦手でした。コンプレックスの塊で、無理に自分を褒めたりすれば「自慢かよ」「嫌味かよ」と言われる事が多くて、いつの間にか自虐することで自分の居場所を作ろうとしていた気がします。
 最近のXで「#ホメ療法」とハッシュタグを打って、その日にあった良かったこと、一生懸命やったことなど、自分で自分を褒める方がいます。これはとても素敵なことですね。だって、自分を褒めると言うことは自分を大切にする事とイコールですし、自分を大切にすれば自ずと自己肯定感が育まれていきます。
 どんな良くない日でも、探せば必ず「良かった事」「自分ででかしたと言えること」が1つか2つはあります。それが自分発ではなくても「○○さんに会えた」でも「〇〇さんから褒められた」でも良いんですよね。だって自分の行動が無ければ〇〇さんと会うことも褒められる事も無かったわけですから、だから、自分褒めをして自分を愛しましょ。

自己肯定感は利己主義とは違います

 さて、ここまで書いてきて…なんですが、自己肯定感を「利己主義」と勘違いする人がいます。確かに行き過ぎた自己肯定は「神感」ともなりかねません。亡くなった作家の北杜夫さんは、極度の両極性で躁期には家族やスタッフが制止しても、上がる見込みのない株を大量買し、来る執筆依頼は片っ端から引き受けて悲惨な状態に陥ったと言います。これが利己主義の極みのような気がします。またサイコパス的な事件、例えば通り魔のように「誰でも良かった」などと言って他人を犠牲にするような事も利己主義の極みでしょう。
 自己肯定は、これとは違います。
 自己肯定をするためには、他者との関係性も重要です。別にコミュ障でも良いんです。例えば、コンビニで買い物をした時に「ありがとう」と言えるだけでも立派なコミュニケーションです。私自身、学生時代に販売のバイトをしていましたが、気持ちよく接客ができるお客さんは必ずと行っていいほど、去り際に「ありがとう」とか「お世話様」と言ってくれます。だから、本当に1秒・2秒のコンタクトでも「ありがとう」と言えるだけで自分を褒める機会が貰えたと思えば良いんじゃないでしょうか?
 もちろん、今、私がやっているようにBlogを書くことなどはコミュニケーションが存在しない中での作業です。でも、このBlogに対する「Page View」は数字になって出てきます。すると「あー、読んでもらえたんだ」と嬉しくなってきます。コメントは無くても、訪問して頂けた、四で頂けた「ありがとーーーー」なんですね。
 相手が人じゃなくても良いんです。犬でも猫でも。私なんかは氏神様に住んでいるキジバトが、ちょっと近寄ってくれただけで有り難くなります。だって氏神様は八幡様でその神使が鳩ですか😁。

日本人は自己犠牲の文化の中で生きていますが

 日本人の多くは「自己犠牲」が当たり前になっています。それだけに「自己肯定感」を上げるような事に違和感を感じるかも知れません。でも、自己肯定感が上がることで、私は小さな社会貢献に繋がっていると思っています。
 良くポストする「いつものパン屋さん」では「こんにちは!」と「どうもご馳走様でした」は当たり前になっています。新人さんなんかだと「お客様に、そんな事を言われて…」と戸惑ってしまう人もいますが、慣れてくるとニコニコして「あ、こんにちは」と返してくれます。これで、私の中の自己肯定感が上がります。
 自己犠牲至上主義になると、どうしても自虐的になりますよね。私の上司で「責任は私が取ります」「とにかくチャレンジしてくれ」と何度言われたことか。そして、上手くいかなくなると「お前が納得したことなんだから」「チャレンジしろとは言ったけど、無茶しろとは言っていない」と、これも何度言われたことか😁(Purge)。
 こういう人たちは、自己肯定感に溢れる人ではなく利己的な人たちです。
 多くの失敗は、成功を諦めた時に発生します。でも利己的な人たちには目先の「評価」(快感)が最優先ですから、継続による可能性には目もくれなくなる。つまり主体的に考えられないんですね。他者からの評価が気になって仕方ないんです。
 自己肯定感があれば、冒頭に書いたようにチャレンジするということにこそ価値を見出して
・チャレンジ始められた○
・今日も続けられた○
・怒られたけど挫けなかった○
・また怒られたけどキチンと理由を説明できた○
・予算オーバーと言われたけど、再計算して適正な予算を提示できた○
・顧客を獲得できた◎
ですよね。
 このリストに否定的表現をつけたら、絶対に最後まで行きつけません😁

今日も最後までお読み頂きありがとうございます。
私も目下、チャレンジ中です。
鬱くんと一緒に前向きに楽しんでます。今後もよろしくお願いします。

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