モラリストと自己陶酔(自己肯定にあらず)

 私はボランティアながら「あきんど」をやっています。今の御時世、あきんどこそ「モラル」が大切だと言われるのでしょうが、敢えて「モラリスト」と言われる人を批判的に見てみたいなと思ったので、今年最後を、こんなテーマで書いてみようと思います。

商品紹介サイトへ

ボランティアをしているECサイトです!
諸願成就のため「叶願」の商品を覗いてみてください

うつと生きるをサポートする

うつと生きるをサポートする

お客さまの入力

寄付する

モラリストは「正しい人」なのか?

 世の中には「モラル」に拘る人がいます。当然ですよね。これだけコンプライアンスが叫ばれている中でモラルが崩壊していたら、会社では批判、SNSなら炎上することは目に見えています。
 では、そう言ったことを声高に言う人は正しい人なのでしょうか?素朴な疑問です。
 ・私は嘘を言ったことがない
 ・私は触法行為をしたことがない
 ・私は学則違反をしたことがない
 ・私は他人の悪口を言ったことがない
 ・私は他人よりも自分を厳しく律している
 ・他人を攻撃したことはない
 ・誰にでも同じ様に接することができる
 これくらいじゃないと、中々、他人を批判できないと思っています。
 もちろん、そんな事は棚に上げて、他人にモラルを強要する人もいます。が、今やそれは「モラハラ」です。
 そして、上に羅列したことを実行中の人がいたら、私は「嘘つき」だと思ってしまいます。もちろん自分を基準にしています。出来ている人もいるでしょう。でも、精進料理が基本の仏教の祖であるお釈迦様もお肉は食べていました。昔の偉人の多くは沢山の愛妾を抱えていました。今の基準で言えば「異常」ですが、当時としては当たり前だったのです。そんな偉人・聖人でも、こうですから、今、上の事が出来ているなら宗教家か大政治家になれるのではないでしょうか。だから「嘘つき」と思ってしまうわけです。

自身が「モラルを守る人」だと思っている人

 少し前に「私人逮捕系Youtuber」と言うのが流行っていましたね。彼らとしては「警察でも見逃している悪を摘発する」と言う正義感を漲らせて、悪事を見つければ潜入したり、あるいは抵抗すれば制圧したりするわけです。中には警察から行き過ぎとして注意を受けたりする人まで現れて、正義の味方だったつもりが、いつの間にか「迷惑系Youtuber」へと向かっていきました。
  私は元々興味が無かったので、こういった配信を見ていなかったのですが「懲役太郎」さんの配信で取り上げられ、そこで発達障害の人からのメールを紹介されたことで認識をし、これはヤヴァいな。と思ったのですね。
 その投書では発達障害故に「やってはいけない事」の区別がつかないケースや、区別がついていても抑制できないケースもある。それを配信の中、音声で必死に訴えている被逮捕者がいたことが綴られていました。なお、この方は最初の頃、こういった配信が不自由な自分には、とてもありがたく見えていたそうです。しかし、逮捕される人の中に自分と類似した人もいることが判かり、懲役太郎さんが取り上げたところで意を決して文書にしたようでした。
 これを見て、私は彼らが正義の味方からいともたやすく迷惑系に陥った理由が腹落ちしました。と言うのは、彼らは彼らの基準で「正義」を決めていたからなんですね。これは完全な自己陶酔です。

正義とは?

 法学部を出た経験で言えば「正義」は非常に難しい概念なのです。単純に言えば「法律を守っている」なのですが、それだけで「正義」を語ると、実はモラルにうるさい人達からすれば、不満な様子です。いや不満を述べる人がいます。例えばメディアです「私達の仕事は社会正義を実現することです」とポストする記者を散見することがあります。これも私人逮捕系と同様、同じような自己陶酔なんですね。何故なら、彼らは「第四の権力」と呼ばれた(過去形)のように、立法・行政・司法の三権に対するチェック機能を有すると認識されていたからです。ところが、偏向報道や誤報に対する訂正・謝罪のあり方だけではなく「報道しない自由」と言われるような、不都合な事実は紙面や電波に乗せない事がネット、SNSの普及に伴って訴権してしまった訳です。
 それだけに、彼らが振りかざす「正義」が決して一番カンタンな「法律を守っている」すら無視して「正義」と叫んでいることが解ったわけです。
 そして、この正義という自己陶酔の露見が広まることで、一般人、ネットを使っている人の方が第四の権力を持つようになりました。これこそ、本来は「護憲」を旗印にしたようなメディアにとっては「主権在民」「国民主権」の実現が実現された姿なわけです。ところが、実際には「飯が食えない」「自分たちの権益が侵される」と思うのでしょうか、常に「ネットの情報は偏っている」「便所の落書き」などと言って無視を決め込みます。
 これが「正義」の末路です。自己陶酔しかない人達には、正義やモラルを語る資格があるのだろうか?とすら思ってしまいます。

自分事として考えてみる

 と他人の批判をしている私はどうでしょう。健常だった頃は「モラル」にうるさいタイプでした。ただ生来の面倒くさがりのお陰でモラリストになりきることが出来ませんでした。
 その御蔭で「モラリスト」に出会うことが沢山ありました。「○○すべきである」「○○しなくてはならない」「○○は周りの目に悪く映る」などなどです。そして、その結語は「俺が上手くやっておいた」と言う恩を売るか、「もうお前を庇うのは難しい」です。いや、正直、守られた事なんてないんですけどね(😁)。
 そして健常だった私の目には「べきと言うなら、自分でやる『べき』だよね」「○○しなきゃならんのなら、その為の努力(体制づくり)はした?丸投げすんなよ」「〇〇が悪印象なら、貴方のやっていること事態がルール違反なんですけどね」と言う反面教師なデータ収集に役立つことばかり。特に丸投げタイプは、モラハラで訴えられるレベルだったりします。
 一方、私は?モラルより「やらなきゃならないこと」「今、一番重要な事」を片っ端から片付ける事に熱心で、その中には「モラル違反」すらあり得るのですよ(例:接待して、出来るだけ競合他社の状況を聞き出すなど)。完全にモラルとしては失格です。ところが、こういった宴席の予算申請は簡単に降りたりします。これがモラリストにとってのモラルの水準な訳です。もう少し噛み砕けば「モラルなんて口だけ。自分の成績に繋がるなら多少の問題があっても承認する」と言う事です。

自分基準でモラルを押し付けるなら、本当の最低限を弁えよう

 人は知らぬ間に自分基準のモラルを他人に押し付けたりするものです。これは人として社会生活をしていれば…テレビやYouTubeを見ているだけでも「いいねを押すかどうか」など、モラルが発動しています。そんな中で人と付き合っていて「モラルを押し付ける」人にお願いしたいことが一つだけあります。
 「感謝」だけはキチンと言いましょう。私などは別にお礼を待っているわけではありません。デモ見ていると「ご協力を」と言いながら、お礼が無かったり、親しいところだけにお礼をいうのは変だなと思ってしまうんですね。寧ろ自分からより遠い関係性の人にお礼を言う方が、大切な気がします。Xなら、リポストしてくれた人は通知でわかります。私は本垢でもうっちー垢でもお礼だけは大事にしたいと思っています。これが私にできる最低限のモラルだからです。しかし、お礼が言えない人、変更しちゃう人もいますよね。その小さな輪の中で支援を求めるならコミュニティでやれば良いと思います。
 同時に、先程書いたモラハラ上司やメディアもように「自分基準」が強すぎて、まるで「エセ正義」にいしか見えなくなってしまいますね。

と、自分でも気をつけたいことをつらつらと書いてまいりました。
今日も最後までお読み頂きありがとうございます。本年も後半になって作ったアカウント、そして、Blogもほぼ同時期に始めながら、自分が予想したよりも多くの人達にご覧いただけていることに驚いています。
 来年は、もっとパワーアップして自分の中を書いて参りたいと思います。
 是非、来年もうっちーをよろしくお願い致します。

商品紹介サイトへ

ボランティアをしているECサイトです!
諸願成就のため「叶願」の商品を覗いてみてください

うつと生きるをサポートする

うつと生きるをサポートする

お客さまの入力

寄付する

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です