埋まらない歪み…
1. 内部疾患・見えない障害に対する空間の不作為
障害者差別解消法が施行されて久しいですが、精神疾患を持つものから見て、変化を実感できないことが多くあります。例えば、駐車場の障害者専用スペースに置かれた看板に「身体障害者専用」という文字があったりします。正直、この表記が必要なのか?もし必要なら「車椅子などを必要とする」と小さくても書いてほしいと思うのです。そしてこの書き方は、内部障害者や精神障害者にとって、静かな、しかし確実な拒絶として機能しています。
この「可視」と「不可視」の境界線について、ある論考は鋭く指摘しています。
「障害とは個人の肉体的な欠陥ではなく、社会が作り出した障壁(バリア)そのものです。車椅子を使っているか、目に見えない慢性疾患を抱えているかにかかわらず、社会参加を阻む壁が存在するならば、それは等しく解消されるべき『障害』なのです」 (引用:The sometimes hard-to-see line between visible and invisible disabilities — This is what disabled looks like.)
また、こんな動画もあります。
https://www.tiktok.com/@fc22695/video/7603631462126013714?is_from_webapp=1&sender_device=pc
YouTubeなどで見かけるマイケル・ベイ監督風の過剰な演出を施したパロディ動画です。多目的トイレを不適切に使用していた健常者が、車椅子の来客に慌て、障害者のふりをしてその場を凌ごうとする。
笑いを誘うこの動画が見せているのは、多くの人が『障害』を、理解すべき対象ではなく、『可視化された症状』としてしか受け止めていない事実だと思えます。この動画では車椅子と言う記号が見ている人にハンディキャップを意識させ、なければ健常者として扱う。そこにある極端な二分法は正解なのでしょうか?外見では健常者とは区別できない精神障害者を社会の中で「透明化」させてしまっている正体ではないでしょうか。
では日本はどうでしょうか。多分、外国よりも日本の方が精神疾患には社会的スティグマが強いのでは?と思っています。私自身も発症するまで精神疾患は他人事でしたし、うつ病と診断を受けても半年あれば復帰できると考えていました。しかし一見して健康そうな者が優先席に座ることで受ける無言の非難を感じます。なので身体が重くて仕方なく座るときにはハートマークをこれでもかとみえる形でお披露目しています…。
法が障害者を細分化していることで、私のような精神障害者を公的な空間から心理的に押し出され続けている気がしています。
実際、公共交通機関のバスでも、不思議な扱いを受けたことがあります。
以前のことですが、ターミナル駅からバスに乗ろうしたとき、バスの運転手は不在のままドアが開けられていました。便利かもしれませんが、障害者割引を受けようと思うと運転手さんによる料金変更をしてもらわないと支払えません(都内なので殆どのバスが先払いです)。運転手さんの戻りを待つ間、他の人がどんどんと入っていきます。
後日になって状況の改善をバス会社にお願いをしました。この事で休憩中でもドアは開けておき、料金支払いの近くに「割引が必要な方は運転手の戻りまでお席でお待ち下さい」と札を立てるというお話を頂きました。
これは都バスでも似たような状況がありました。雨の日にバスに乗ろうとして誤ってPASMOをタッチしてしまいました。無料パスはPASMOの上に重ねてあったので慌てて「すみません。タッチしてしまいました」と運転手さんに謝罪したところ、運転手さんから「何、タッチしてんだよ」という罵声が返ってきたのです。誤タッチ分の返金をお願いしても「できない」と言い、その後、無料乗車券を渡されました。もちろん、無料パスがありますから受け取ったところで何も返金としての価値にはなりません。それを伝えると「誰かにあげるかしろ」という提案?いや不正使用をアドバイスしてきました。それを抗議したら、今度は「営業所で換金できるから」と、抗議するたびに内容がズレてくるのです。結局、終点のバス停まで乗り、そこにあるサービスカウンタで聞くと、営業所は当該路線のかなり手前にあるとのこと、そしてそのバスで戻るなら歩きの方が良いとの応えがありました。豪雨の中です。巨大な企業ビルが立ち並ぶ傍らを靴をぐしょぐしょにして歩きました。
正直、1kmか少し上回る程度の距離だと思います。しかし、うつ病の人には辛い歩きです。鉛のような足を一歩ずつ前に出してようやく営業所。そこで説明の上で換金をしてもらおうとすると「社内でできたんですけど」という返事。これで流石に怒りました。運転手(敢えて「さん」は付けません)は暴言を吐いただけではなく、無料乗車券の不正使用を唆し、更に出来ることを出来ないと言ったのです。
彼の行動が都バス全体の問題だとは言いません。しかしながら、無料パスを利用する人にとっては、交通系ICカードを誤タッチしても、堂々と返金要求をしてください。必ず返金できます。
2. 法体系による精神障害者の「区別」
ETC割引をはじめ、精神障害者の特性を置き去りにした状況は今も残っています。
以前よりも他の障害者に比べ減ってきているとは言え、こうした状況に今もがっかりする精神障害者も少なくないと思っています。
他国では余り一般の障害者と精神障害者との区別がありません。しかし日本の場合、「身体障害者福祉法」と「精神保健福祉法」という、法的な区分けが存在していて、縦割り化の背景になっています。行政がこれらを別個の法律で管理し続ける限り、精神障害は常に施策において後回しにされてしまいます。
この行政側の姿勢を横目に見ることで、民間もまた、精神疾患を身体障害とは異なる「別枠」として扱うことを、正当な「区別」であると錯覚しています。
冒頭の「身体障害者専用」という但書は良い例ですが、
3. 制度の死角:父の参政権と客観性の嘘
これを書いているのは総選挙の前日です。ここでも制度の歪み…障害者に対する認識の甘さを感じる事がありました。私の父は脳内出血で寝たきりです。出血当初は半身の麻痺と失語症。生命も危うい状況にありました。しかし、それを乗り越えた今は全身が強張り、身体の殆どが動かせません。
病院としては「何を言っても『あー』としか言わない」と言う重度の障害を抱えています。しかし、私等の身内が行くと、明らかに喜怒哀楽、YES/NOをはっきりと表現しています。病院のスタッフの入れ替わりが激しく、もうご存知の方もいませんが、父はテレビを見るためにメガネをしています。それも入院後、言語が出ない状況でプロの眼鏡屋さんにお願いをして作っていただきました。そのメガネ、父が倒れる前にしていたものとほぼ同じデザイン。プロの仕事を見せていただきましたし、父が第三者にもキチンと対応して頂ければ意思を示すことができると言う力強い証拠だと思っています。
また、父は選挙好きである政党の党員でもありました。そのため、実家には入れ替わり立ち替わり、市議さんの名刺が置かれていきます。そんな父ですから、今回の選挙はもどかしかろうと思い、市役所を訪ね投票したい旨を伝えたのですが「両脚の障害」が認定された障害者手帳が無ければ、郵送などの手続きも出来ないと言われてしまいました。病院に尋ねても先程、書いたように「あー」としか言わない病人としか見ていません。そのため、父は病院のプロトコルであり、選管とも会話の上で病院にも落ち度がない旨で父が投票出来なかったことを伝えてくれました。それは仕方のないことだと受け止めています。むしろ、現状は肢体の不自由が進んでいる中で、以前の障害よりも進んでいる状況を考慮して、郵送での投票を可能として頂きたい。父は家族には分かるように意思表示をしますから、その通りに投票します。今のままでは憲法が保障する参政権を父から奪っていることになるのです。
結び:止まない雨の中で
実家の壁には、今も政治家のポスターが貼ってあります。父が国民として政治に向き合ってきた証だと考えています。私が雨の中を歩き、そんな中で政治家へ総務省規定の見直しを要請しました。それは父の沈黙を、それから私の濡れた靴を、無意味なものにしたくないからです。制度の谷間という雨の中で立ち尽くす人々を、これ以上、政治や制度の不作為という雨に濡らしたくない。そう考えています。

