私の中の「永遠の0」…
今回は、病気とは余り関係のない話…自分の中で大切な思い出を含めて書きます。
お墓参りをしていて
よく書くことですが、お寺や神社にお参りするとインスピレーションが湧いてくることがあります。今回は、ある方のお墓参りをした時に感じた事がベースになる話です。
その方は小学校高学年から中学校まで、夏休みになると居候してお世話になったご夫婦です。平たく言えば父親が勤めていた会社の社長夫妻でした。
お子さんが無かったこともあり、厳しく優しく一ヶ月ぐらいを毎年過ごすことが恒例行事になっていました。
その方のお墓には毎度ではないものの、お彼岸やお盆には出来るだけお参りするようにしています。そして、今年のお盆、何故か、奥様(以下、おばさんと書くと思います)との会話が思い出されてきたのです。
インスピレーション?思い出?
思い出したことは二人でテレビを見ながらしていた内容です。「戦争って嫌だねぇ」と関西弁で話すおばさん。いつも枯れかけたひまわりみたいに真っ黒な顔をしながら笑っているおばさんが、珍しくしんみりとしていました。そして「私の兄弟の一人が戦争に行って、行方不明になったんよ。でも、私はね、特攻だと思ってる」と言ったのです。
プラモデル、特に戦闘機系と軍艦系を作りまくっていた私は、多分、同世代の人よりも戦史については多少なりとも知識があり、通常の戦死者は行方不明で終わらないはずだと思っていたのですが、どうやら、それが全てではないと知ったのは、この時でした。
そんな会話がお墓の前でクッキリと思い出されてきたのです。そこで「調べたい!!」と思ったのです。ちょうど「永遠の0」で孫がお爺さんの足跡をトレースしていく感じで、何とかなるかもと。
ぶち当たった壁
とは言え、調べるにしても難しいところが一杯ありました。一つは、おばさんの旧姓がわからないこと。それを調べるには父親の繋がりで、特に親類に突き当たる事ができるかどうか。ということ。ただ、それが判れば、自分の中では満足の行く情報が得られる自信があったのです。
と言うのは、予てから靖国神社の崇敬会会員で、神社内にある遊就館に行けば戦死者の名簿閲覧が無料でできるのです。そこでおばさんの旧姓と出身地で調べれば、完全な同一人物ではないとしても、何となく「その人」が見つかるかも知れない。と思ったのです。
が、この壁が分厚い。父親への依頼は直ぐに出来たし、私も知っているおばさんの親類の電話番号も解ったのです。が、そこに電話する勇気が出ない。何ヶ月も電話番号が自分のiPhoneの中で寝ている状態でした。
そして今日。意外な話が…。
そして今日、ボランティアでのお取引様に電話し終わった直後、ふと「あ、今の勢いなら電話できる!」と思って、その親戚に電話をしてみました。
まずは、おばさんが亡くなって20年ぐらいですね。ご無沙汰していたお詫びに始まって、すぐに「旧姓が知りたい」と質問を投げました。すると「おばさんね、凄い複雑な家庭だったのよ」とちょっと意外な言葉が…。
「おばさんのお兄さんは、確か出征して亡くなっているはず。そこまでは私も知ってるの。でもね。私もおばさんの旧姓は知らないのよ」と。
「おばさんのお兄さん。実は異父兄でね。おばさんと同じ名前だったかが判らないの。その上ね、おばさんのお母さんという人が、おばさんを産んで、その後、また別の人と結婚してね。」と続きます。
「おばさんに何人か弟さんがいるんだけど、おばさんとは異父弟になるんだよね。で、今も弟は生きているんだけど…、多分、おばさんのお兄さんの苗字は知らないんじゃないかと思うんだよね」と。
社長夫人だけど…。
最初に社長夫人として紹介したおばさんですが、伊丹で生まれ色々と苦労して育ったことは知っていました。そして、思い切りのカナヅチ!。まだ私が幼稚園だったころ、当時は「社員旅行」なんていうのが当たり前にあって、そこで海に行った記憶があります。もちろん、おばさんもいました。でもカナヅチのおばさんは海に足がつくやいなや「ギャーっ!!」と叫んでいたのです。そして「うっちー❣だめ、それ以上、先に行くと死んじゃう!!」って勢いは覚めやらず注意されていたんです。それくらい水がダメな人でした。そして、ベランメェで子供に本気で注意してきてた訳です。ただ、その時点で私は浮き輪もしてたし、スネの真ん中ぐらいまでしか水が無いので…浮き輪の楽しみがないのでおばさんの注意は無視してたはずです(😁)。
そんなおばさんが、私が小学生になると一念発起して水泳教室に通い始めます。そして遂には、ある市の水泳インストラクター試験にも合格するは、ある企業の水泳部コーチにはなるは、もう「アテクシ、水泳の天才なんじゃないの?」と言う豹変を見せます。そして、小学校、高学年の正月。毎年、幹部社員を招いて行われていた新年会の時に「今年の夏、おばさんとこで水泳覚えよや」と言われ父親も「預かって貰えるんなら助かりますわ」で本人の意志は無視されて夏の予定が確定。お年玉貰っているだけに文句は言えません。
そこから毎年、夏はおばさんコーチに時にはマンツーマン、時には社会人水泳部に混じって、時には市の水泳教室に紛れ込んで水泳をやっていたわけです。だから、社長夫人なのに枯れかけたひまわりのように真っ黒な顔してニッコニッコで楽しんでいたんですね。
で、決めたこと
今、ボランティアで協力している企業の取引先に世田谷山観音寺があります。こちらには「特攻平和観音堂」と言うお堂があり、神風特別攻撃隊に限らず、回天など各特攻部隊で亡くなった方のご供養が行われています。お寺で戦死者を纏まった形でご供養しているのはとてもめずらしいのです。
そして、先述の通り、靖国神社にもお参りができます。
基本は、その土地から出征した方々をお祀りしている忠魂碑や護国神社もあります。そういった所で名も知れぬ方ですが、私の恩人のお兄さんの事を想って手を合わせよう。
そう決めました。
今日も最後までお読み頂き、ありがとうございます。今回は病気の事から少し離れた内容でしたが、お許しください。