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このページは「私はうつにならないタイプ」「身近で少し変な感じがする」と言う為に書きますね
自分は「うつ」になるなんて思ってもみずに長く生きてきましたし、周りからもそう思われていました。身体の心配はされても、精神が壊れるなんて自分も周りも思っていなかった。そんな人でした。が、実際になってみてから振り返ると「あー、こんな事があったな」と思う節が幾つかあります。もしかしたら、これを読んで頂いている方の中には「自分は大丈夫だと思うけどね」という方や周りに「ちょっと怪しいかな?」と言う程度でチラ見している状況の人もいらっしゃるかと思いつつ、このページを書いていきます。
それは10年以上前でしたが
もしかしたらと思う節は10年以上前に起きました。当時、外資系のIT会社にコンサルタントとして勤めていました。聞こえは多少良いかもしれませんが、泥臭い仕事の積み重ねの毎日です。その会社の特徴を詳らかに書いてしまうと現存する企業で書けないことも多いのですが、特徴として製品数が多いこと、そしてカントリーマネージャー(まぁ日本法人の社長みたいな存在)が頻繁に入れ替わることだと言えるでしょう。製品数が多いことは、直接、過度なストレスには通じないのですが、新任のカントリーマネージャーの中には世界的に売れていない製品に目をつけて「日本で売ってみせる」と本社に過度な売上目標と共に売れていない製品の事までコミットしてしまう人がいます。そして良く知られていることですが、カントリーマネージャーの交代で現場スタッフが大幅に入れ替わる事が頻繁に起きます。簡単に言えば「子分軍団の来襲」です。まず斬られるのがマネージメント陣です。正直、無能なマネージャーが斬られる分には問題なし。と言うか前任のカントリーマネージャーの子分軍団だったりするので…歓迎する向きもおおいのです。が、有能な人も同じリスクに晒されます。こうして斬られる人、そして斬られる前に転職する人が相次ぎ、半年もするとマネージメント陣は新任のカントリーマネージャーの子分軍団に占拠されることになります。こうなると現場のスタッフも転職も出ますし、営業などは特に斬られる対象になったりします。これで概ねの占拠が完了です。残った古参の現場スタッフは3通りの意識を持つことになります。一つは自分も出ていかないと不味いなと言う「転職予備組」、そして自分は大丈夫かなという「おっとり組」、もう一つが新カントリーマネージャーに媚びへつらう「寝返り組」です。私は当初、おっとり組だったのですが、徐々に退職圧力がエンジニアやコンサルにも広がるにつれ「転職予備組」に心境が変わりつつ、一方でコンサルでありながら売上成績が良いことから斬首候補にINすることは一定、猶予されていました。
こんな中で、新カントリーマネージャーの子分軍団、そして寝返り組でも売り上げが上がらずカントリーマネージャーのストレスが暴走しだします。これではついていくこともできず、更には売り上げが上がっていることから先程書いた「世界的に売れていない製品をお前の客に押し込んでこい」と言うご命令を受けることになります。この手の製品は大手どころでも開発スタッフが充分に確保されていません。私自身、他のメーカーの製品を扱ったこともある経験から「長所」が見つからず「押し込め」と言われてもセールストークがないのです。更に一定期間、そこそこの成果を出すための裏技と言っても良いでしょうが、本社や海外の支社の開発陣とのコネクションが上位階層にも現場階層にもできていたりします。そういった「仲間」に「どう売れば良いんだろうね」と聞くと異口同音「お前の時間を無駄にするな」と助言か「売ったら承知しないよ」という半ば脅し(笑)のような呆れモードの返事です。
結果として、このような状況で売ることはできません。まぁ、これがカントリーマネージャーの罠だったのでしょうね。売れれば自分の手柄、売れなければ私の無能さの露呈ということだったのだと今は理解しています。そして様々な退職圧力が掛かり始めます。この頃には過去に退職していた人たちとの間で「有能弁護士ネットワーク」が出来上がっていました。これが幸いして退職圧力が掛かりながら、いや実質「退職命令」が出ていながら半年間の徹底抗戦をしながら一定のオプション(退職手当)などをかくとくしつつ転職活動も成功して無事に「円満退社(笑)」ができることとなりました。
が、これが「うつ」のきっかけだったと思うのです。この半年の間で失ったものがあります。それが「時間感覚」です。午前と午後を間違えたりする訳ではないのですが、一週間単位となるとそれが、先週のことだったのか、先々週のことだったのか…など記憶が不明瞭になるのです。必ずノートやPCのメモに日付を書くようになったのは、この頃です。この症状(?)は仕事だけではなくプライベートでも起きていて、今でも治っていません。
過度な外的ストレスによる記憶の障害なのかもしれませんね。
過度な仕事のし過ぎ…やる気を操作される
この会社を辞めて後、少し外資が入った企業へ転職をしています。この時のミッションは「とある海外クラウドの国内展開」でした。とは言え、実質は国内企業、海外クラウドと言っても全くの別会社のサービスです。採用された理由は「英語」。世の中、「英語が苦手」と言いつつ出来る人も多いものですが、その逆もいます。前任者が英語が出来ると言いつつ、相手の会社から「NO」を突きつけられたため(全くできないのに「出来る」と言うのも中々のものです)、知人からの紹介で転職がトントンと決まったわけです。ただ知人から聞いていた話と実態の乖離が様々とあるのは、まぁ良くある話です。ただ入社後半年ぐらいしてからでしょうか、上司から「このクラウドで会社作るつもりだから、その予定で」と言われることになります。この時点で解っていたのは、上司と言っても執行役員。とは言え所謂「反主流派」で様々な反対にあって窮屈な思いをしていることは理解していました。
その為、週に2回はオフィス内外で打ち合わせをし、会社内部での軋轢や会社を作る手順について会話をしていました。更に、ここに紹介をしてくれた知人も加わり、ファンドからの出資を受けて起業、その前提としてその時点では案件先、その後、顧客となった企業との「合意」が形成されていること、当然、相手先のクラウド提供会社との合意形成が必要だと言うことで話が進みます。
こうなると、それまで以上に必死です。まずフロントで実際に動いているのは私一人、お客様にも相手先企業にも案件を進めつつ、将来像についても問題をクリアするための諸条件を提示してもらいながらファンドへのフィードバックをして地ならしをします。また日本でもほとんど初めての導入となるので様々な諸問題、例えば日本語化などの作業も外注先と調整を行いながら進めていきます。と、ある日、社長からのお呼び出しを受けます。「クラウドのサービスについて説明して欲しい」と言うのがその理由です。執行役員からの説明では理解できないから、と言うことで微に入り細に入りサービス説明を受けます。サービスが求められる理由、というそもそもの点からできるだけ丁寧に説明をしていき、途中、秘書さんが「そろそろお時間ですが」と言われても「リスケしてくれ」となって2時間程度でしたが出来るだけの説明をしました。実はこの社長と執行役員は犬猿の仲。言ってみれば執行役員の執行権限を越えるような予算を費やす可能性のある新規事業立ち上げをストップするつもりで呼び出したらしいのですが、実際には高評価となります。実は、同様に並行して4つの新事業計画が走っていたのですが、いずれも相手先企業との関係性の悪化や事業のポテンシャルが高くないなどの理由から、実質、ストップが掛けられまくっていたので、唯一、生き残ったのが私の担当領域となったのです。ここまでは、良いストーリーですし、私としてはアドレナリンを出しまくりながら、アシスタントも一名つけてもらって仕事を進めていきました。とは言っても、お客様のサイズも大きく、各ネゴ・地盤づくりも容易ではありません。休日・土日は当然の如くにすべて返上。夏休みのドライブ旅行に行っても、途中で海外から電話が掛かってきて近くのSAに停めて電話、一応、架電終了しても嫌な予感がして妻に運転を変わってもらいつつ、再度、電話。旅先の宿では資料作り。など当たり前。会社的には「休み」ですが、私としては全く休まらない日々でした。
潮目が変わったのは社長が交代したところです。新社長がやはり「可能性のある新規事業」として説明の席を求めてきます。この頃には相手会社からクラウドサービスの知識だけではなく、その背景・社会情勢についてもプロとして生きていけるね。と言われる程度には知識や情報もあったので、ホイホイと説明して終わり。結論としては新社長が着任の挨拶としてお客様先に訪問することとなりました。これが契機です。それまでは反主流派だった執行役員が社長に「会社としてこのクラウドを全面的にサポートしていく」と言われてしまうのです。さぁ、こうなると「会社作るぞ」なんていう気は彼の頭から消えたのでしょうね。それまで週一では打ち合わせしていたファンドとの打ち合わせも欠席がちになり、そのファンドがロードマップとしていた会社設立をしても「社長は別の人に」と辞退をしてしまいます。そして「会社作るの辞めるわ」と言われてしまいます。それまでの努力のうち、新会社という機微な話を慎重に進めていたのが水の泡。「なんだそれ?」と言う話ですね(笑)。その上に問題がありました。私はコンサルテーションということで、執行役員や営業が見つけてくる新規案件に全て対応することがミッションです。導入については執行役員の下にいる事業本部長が「俺がPMやるから」と言うことでアシスタントもプロジェクト側に入れて対応してもらっていました。が、この導入プロジェクトが進みません。
日本語化も無茶なお願いをしながら外注先がほぼパーフェクトに対応してくれていながら、自社がプロジェクトを進められない。終いには「お前が情報を上げてこないからだ」と言うことになってしまいます。アシスタント…何も理解していなかったのです。海外出張までしてトレーニングを受け、相手側も質問窓口を設けてくれていたのに…。「全然、質問来ないんだけどさ。大丈夫?」と相手側からは質問が来るし、スケジューラーを見てもPMも誰も顧客訪問が予定されていません。そりゃプロジェクトが進むわけがありません。営業に聞いても「まだまだ訪問できるほど情報がないって言ってねぇ」と呆れ顔。結果、半年以上あったスケジュールの殆どが費やされた段階で成果物ゼロ。仕方なく私がPMとなることで何とかスケジュールを取り戻すようにして、相手先企業やお客様にもネゴを重ねながら突貫プロジェクトを進めることになりました。
幸い、相手企業やプロジェクトメンバーの協力もあってプロジェクトは無事に完了。ただ、この時点で私の精神に異変が起きていました。アンガーマネジメントが必要とされるくらいに苛つきが抑えられなくなっていました。「新会社」と言う目標が無くなっていたのも大きかったと思いますし、こっちは相変わらず休日返上なのにアシスタント(元)も事業部長もお休みは堂々と取る。不平不満も溜まり切っていたのでしょう。
そんな状況でファンドの執行役員への信頼感は当然なくなり、事業をどうするか?と言う話し合いが行われました。当然、主導権は会社側にあるのですが、ファンドとしても社長が直接指揮を取っている案件なだけに不穏な状況です。実質、執行役員は出入り禁止状態。残されたオプションは非常に少ない…実質、社長同士の話し合いを行うか否かと言う段階にまで進んでいました。と、そんな中で執行役員と私の会話も全く無くなっていたのですが、唐突に呼び出しを受けます。言われた内容はコンサルテーションから外し、プロジェクトに専念せよ。と言う内容でした。実は、この時点で執行役員は担当部署替わりをしていて私に対する人事権はなかったのですが、私の上位になる執行役員(彼は経緯を全く知りません)を同席させた上でこういう指示を出してきました。
もう我慢の限界でした。「本人の意向も考えず、実務にも関与せず、信頼関係の醸成もできない人に指示される謂れはない」と辞意を含めて発言をしました。これが執行役員の作戦だったのは解っていました。辞職に追い込むための彼なりの手順だったのです。
これから以後、溜まっていた有給代休を取りながら、プロジェクトがほぼ完遂するところまでは持ち込みました。メンバーからは感謝されましたが、当然、上位の人たちからは「出勤もしないで」とか色々言われていたようですね。これが約3ヶ月。その間、執行役員の意を受けた事業部長から辞表提示の督促が毎日のようにメールで送られてきましたが、自分の中ではプロジェクトが一定見えてくるまではと思い我慢をし続けていると、今度はプロジェクトからの一方的な解任。まぁ、見事に「無益のマネージャー」です。労基局に行くことも考えましたが、ギリギリまで粘り続けながら、辞表の提示をします。ただ、執行役員は自分の致命的なミスを忘れていたようです。起業すること、そのためにファンドを動かしていること、そのために事業計画を作ったことなどを公私のメールで私と共有していたのです。これを全て社長宛てにメールをしました。辞意は撤回できる状況ではありませんでしたから、これがラストメールです。
そしてプロジェクトメンバー達に見送られながら最後の退勤、以後は知人の紹介で別のIT企業に移ることとなります。
なお、この執行役員ですが…。通常、上場企業の場合、執行役員や役員の異動は告知されることが多いのですが、彼の場合は全く触れられることなく3ヶ月ほど経ったある日、会社サイトの執行役員リストから削除され、辞職したことを知りました。
そして発症へ
会社を辞め、知人の紹介もあって比較的順調に次の職場が決まりました。IT業界では一般的なSES(SEサービス)を中心とした会社です。正直な話、この種のビジネスモデルには乗り気ではないのですが、一方でSESが抱える労働集約型から脱却するような新規事業への模索もあると言うこと、そして早期に「飯の種」を確保すると言う背に腹を代えられない状況もあっての転職でした。
ただ、ここで「クスブリ」を感じ始めます。まず、下請け要員として大規模プロジェクトへ参加。話としてはPMクラス、コンサルテーションとも言われましたが、やっていることは人海戦術の一部。それも相当に火がついた状況での参加。毎晩10時〜11時に代謝する日々。まぁ、脳みそをフル回転させる前職よりは楽な部分もありましたが、やる気というものはありません。
これが終わって、新規事業のお手伝い要員になります。が、まず、このリーダーが会社を良くご存知。と言えば良いのでしょうが、他社で既に手垢に塗れた製品や領域で自社が取り組んでいないこと、そしてAIという言葉で踊っている感じで、どうも事業を起こす、何か新たなマーケットを開拓すると言う視点は感じられません。AIで協業していた会社さんと話して、その企業が得意とする分野で考えられるマーケットを模索し、ソリューションの原案を作ります。これで「クスブリ」が終わるかと思えたのです。が、ここからが大変でした。早々に案件先も見つかり、マーケットのニーズが確認された段階でAI会社が動き出す。と思っていたのですが、一向に動く気配がありません。いや状況を聞くと動いているかのような回答があるのですが、開発計画の素案などを聞くと何も音沙汰なし。その一方で案件先からは質問書が提示され、RFP(提案書提示の要求)が始まります。基本、開発主体となるAI会社が中心になって書いてくれなければ困る(出来る出来ないがはっきりしませんからね)のですが、回答が明後日の方向を向いているようなトンチンカンな内容ばかり。質問の趣旨が分からなければ質問書を出すのが常道なのですが、これがなく妙な理解をして回答を書いているとしか思えません。仕方なく、こちらで質問書を代筆し、案件先に提示し、その回答を噛んで含んでAI会社に説明をして、そこから出てくる言葉をこちらで提案書に反映して案件先に提示するということが重なりました。この間、ほとんど休日もなく仕事に没入している状況です。そのうち、この時点で新規事業の担当役員が以前のトラウマ(笑)と同様「これが上手く行ったら会社作るぞ」と言う話が出てきます。正直、以前の状況よりも厳しいことは肌身に感じていました。その理由はAI会社のレベルが低すぎるのです(失礼)。営業が「出来る」と言ったことを開発リーダーがその場では異論も挟まずにいるのですが、実働は殆どなし。RFPに記載されている「本番稼働」の期日に間違いなく間に合わない時期に差し掛かっても、デモ環境もままならない。どころか、会社の状況やAIで実装する内容を聴けば聴くほど、内容が酷い事が解って来たのです。会社は某大企業からの紹介だったので信用はあるかと思ったのですが、実際には借金漬けで実際に稼働している顧客システムは殆どなし。出来ると言っていた機能も実際にはこれから開発しても出来るかどうか…というか無理な事も分かるなど、懸命に動いた結果としては詐欺師を相手に労働力とある業務のノウハウを搾取された気分になっていました。この事を新規事業担当の役員に伝えても「あの会社が紹介してくれてるんだから」で動かず。最終的には「じゃ、RFPに正直ベースで出来るかどうかを書いてもらいましょう」と提案をすることになりました。
そして一週間待って返ってきた内容を見ると殆ど全ての機能が「不可」で返ってきたのです。ここからは地獄でした。まず、期日が迫っている中で対応できる会社を探しますが、基本なし。AIの専業会社を幾つも当たりますが、独自技術の優位性を説明できる会社は殆どないんですね。そこで枯れた技術をベースにソリューション案を作り直して提出することへと路線を変更しました。地獄に入った最大の要因は「この案件を期日までに稼働させると言うのは差し迫った状況なので、ここからは泥縄の悪あがきです」と担当役員に説明し、了承を得たのですが…。完全に、この時点で彼自身が保身に走ったのが見えたんですね。そうなると犯人は「私」です。この時点でうつの初期症状と思われる蕁麻疹や便秘、食欲不振や多汗症などに襲われていたのですが、悪あがきでも収束させる必要が私の責務だと思って必死になって旧知のIT会社などにもお願いをして開発委託をしました。ここで不思議だと思われると思いますが自社のリソースは「使わない」と言うのが担当役員の設定していた大前提だったので、こういった動きを取らざるを得なかった事もありますし、対象の業界・業務ノウハウがない会社だったので外部でノウハウを持っている会社の方が良いものを作る可能性がわずかでもあるからです。
ただ、当然、こうなると案件としては失注になります。これで実質的にはうつが発症していたのでしょう。全くやる気が起きず、倦怠感などにも襲われます。この時には無休で働き続けた反動で疲れが出たのだと思いつつ担当役員には休むほどでは無いが様々な体調不良が出てきている旨は告げていました。が、「わがまま」だとか言われた記憶があります。ただ、この時点から印象的な言葉以外、かなり記憶が朧になっています。そして主要業務がなくなったところで失敗街道まっしぐらのプロジェクトに組み込まれ資料作りなどを行っていました。が、どんどん作業効率が落ち、更に打ち合わせで出た言葉も右から左に抜けるように自分の事とは理解できないし、自分から何か言葉を発しようとしてもまるで溺れているかのように言葉にならないのです。これで「あ、これ…壊れてる」と言う自覚がやっとできました。それでも半年我慢すればストレスチェックもあるし、それを待とうか…とも思ったのですが、どうも無理そうです。何をする気も起きないのです。ただ欲しいのは何らかの「救済」です。そこで妻に「精神科に行かないとダメみたい」と告げました。
そこからは東京都の登録精神科で近所にあるクリニックを、妻は妻で口コミサイトなどで懸命に探しました。その一方で気持ちがどんどん落ち込んで行くのが分かります。言ってみれば崖っぷちで頑張っていた自分が崖から転落したのです。だから何よりすぐにでも診てもらえるクリニックを選んで予約。そして診断の結果は「うつ」と言う結論が出ました。その診断書を持って翌日には人事へ行き、休職の手続きに入ったのです。
診断をもらってから
診断を貰ってからは「急性期」と言われる、更にしんどい症状に見舞われます。が、その中で考えたのは「うつは心の風邪」なんかじゃない。って事です。寛解しても再発リスクを抱えながら生きることになります。これが、もっと早い段階ならば、軽症で済んでいたかもしれません。いや済んでいたんじゃないかと半ば確信しています。
また「心やストレスのSOSは上司に早めに相談しましょう」という文書を見ることは多々あります。が、私の不徳の結果かもですが、無視されるか聞き流される事が多いんじゃないでしょうか。自分の身体、そして自分の心は自分で守る事が最善です。精神科に行くことに躊躇しないでください。もしかしたら、気のせいかもしれませんし、軽く向精神薬を飲めば改善するかもしれない程度かもしれません。我慢すれば、努力すれば改善する事に期待していても私のように症状が悪化してしまう事もあり得ます。自分の振り返りをしてみれば、早期に発見し治療を開始する事が肝要だと思えてなりません。
自分の周りに徐々に口数が減ってきたり、仕事が忙しい中で蕁麻疹や肌荒れが激しくなるなんて話を聞いたら、単に対処療法を進めるだけではなく、ストレス過多な状況が長く続いていないかウォッチしてあげて欲しいものです。そして半年程度続くようなら、このサイトを見せて上げてください。見づらい文書で申し訳ないのですが、できるだけ赤裸々に書いていきたいと思っていますし、「うつ」で絶望せずに生きていけるような内容にしていくつもりですから。