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カルトや詐欺に騙されないように
急進期、回復期を通じて様々な不安が襲いかかってくると思います。経済、将来、仕事など、その不安の理由は様々です。
そんな時にネットを見ていると、Youtube他のSNSや、様々なサイトでそれとわからない形でもカルト宗教や教材ビジネス(詐欺系)、占いなどの広告が目につくようになりだします。これは、検索や視聴の傾向で広告が「視聴者の嗜好」に合わせて最適化されるためなので、別に天の助けでこういった「救いの手」のような広告が頻出する訳ではありません。
私自身は伝統宗教の神社仏閣好きなのでカルト系にも一定の知識がありましたし、いわゆる「教材ビジネス」と言う手法も知っていたので引っかかる事はありませんでしたが、人によっては救われたい一心でこういった詐欺的な手法に騙される人もいるかもしれませんね。
どうしてカルトは駄目なの?
いわゆる新興宗教全般を私は否定しません。あるいは伝統宗教系ではあってもカルト系に分類されるような宗教もあります。そのため、カルトに対しては気をつけて頂きたいと思います。
というのは、例えばイスラム原理主義と言われるような人々の行動を見ても分かるように、こういったカルト的な考えに染まると、どうしても社会通念が通用しない人になりかねませんよね。イスラム原理主義が特別なのではなく、カルト系の多くは、その宗教が「絶対正義」になってしまうので、かなりヤバいことになると考えています。逆に言えば伝統宗教の多くはオープンな形で参拝もできますし、多くの宮司さんや住職さんとお話をしてきた経験から言えば来るものは拒まず、去る者は追わずと言うスタンスでいらっしゃいます。が、カルトの場合、一旦、入信してしまうと逃げられないので要注意なのです。
そして、うつになるとどうしても心細くなってしまいますし、これは患者本人だけではなくパートナーや親族にも影響が及んでいることが少なくないようです。つまり心細いところにつけ込む形でカルト、そして詐欺師が忍び寄っているものだと思えば良いのです。
では伝統宗教なら救われるのでしょうか?答えは「NO」です。神社仏閣が好きな人間だからこそ「NO」と言います。
じゃ、なんで神社仏閣に行き続けるのか?
うつになってから頻度も行動範囲も狭くなっていますが、それでも氏神様やいきつけ(笑)の神社仏閣へのお参りを続けています。先程、宮司さんや住職さんのお話をしましたが、こういった人たちの中で仰ることに「自分の中に仏様がいる」「自分の中に神社がある」があります。好きな仏様や神様が常に自分を見守ってくれていると思っているので、先程のように神社仏閣が救いになるのか?と聞かれれば「NO」と答えるのです。ただ、それでも自分の中の神様や仏様が疲れて来かもなぁ?と思うと、行きつけの神社に行ってリフレッシュして頂く。と言うのがルーティンになっているんですね。
自分は無信心・無宗教です。という方にも
「日本人は宗教観が薄い」と言われますが、初詣やお盆・お彼岸など神社仏閣にお世話になることは少なくありません。無信心でだと思っていても、手を合わせて祈るのであれば、多分、その方の内心には何らかの神様か仏様に祈る気持ちがあるのではないかと思います。
それすらしないと言う方はどうすれば良いか?私流の答えは「自分の中の力を信じましょう」となります。普段の生活でも様々な思いが浮かんだり消えたりしていますよね。特に鬱の場合にはマイナス的な思考が多くなっていると思います。が、これを全部、ポジティブな言葉に置き換えてみると、ちょっと楽しくなってきます。
また嫌な記憶が思い浮かんで、それが頭の中を占めるようになってきたら、「消去」と呟いています。変な人に見えるかも!?とか考えてはいないのです。とにかく「消去」としてしまえば、自己暗示として嫌な記憶を一時的にであっても頭の中から消し去る事ができることにしてしまうんです。一日に何度も「消去」ということもあります。が、これに慣れてくると、面白いように別の事に思考が切り替わります。このためには自己暗示が大切ですが「そんな事!?」とか思っていると、中々、嫌な記憶が消えないような気がしています(気分転換が下手なのかもですね)。なので意識的に嫌な記憶を消し去るために「消去」と言っていれば安心できると言い聞かせているうちに、人間、ちょっと変なもので嫌な記憶が消去されてて安心できる気がしてきます。これを繰り返していると、向精神薬の頓服を飲む機会が減ってきました。
私の場合、神様・仏様がいると思っているので、消去の他に「神様が見守ってくれてるから大丈夫」と思えるので少し楽になるオプションが増えているかと思います。
ちなみに、カルトに比べて伝統宗教をオススメするもう一つの理由はお金が掛からないと言うことです。ご祈祷などでも受けるなら別ですが、参拝するだけなら、気持ちがあればお賽銭を入れるだけでOKですし、趣味で御朱印やお守りを頂く初穂料などでお支払いすることもあるでしょうが、身ぐるみ剥がれるような事はありません。
そしてもう一つ、もし行った神社仏閣で「精神病ならご祈祷で治ります。◯◯エン掛かりますけどね」と言われたら(私はありませんけど…笑)、「医師と相談します」と答えましょう。少なくとも、うつなどなら医学の方が安くて確実ですから。
基本は自分
私の場合、投薬と行動認知療法を受けています。そして自分でも先程書いた「消去」のように悪い事や嫌なことを考えないように、あるいは良いことにすり替えるような思考を大切にしています。
「すり替え?」と聴くと変な感じかも知れないのですが、基本は「否定形」を使わずに生活してみるっていうことでしょうか。例えば「今日は嫌なことが起きませんように」と神社で手を合わせるなら、「今日は良いことが起きますように」の方が前向きな感じがしませんか?また街で変な人…などを見ると「嫌だなぁ」と思うのでは無く「奇妙だねぇ」と置き換えるようにします。これは私なりの理解ですが、奇妙の「奇」は「奇跡」の「奇」ですし、「妙」にしても「妙なる調」や「妙齢」などとても美しい様子を表す文字です。だから「奇妙」は現代語としては悪い意味で「変」な事を指すようになってきていますが、物珍しい様子などを示していますし、先程書いたように一つ一つの文字は決して悪くは無いのです。更に言えば「奇」の字は「奇怪」などにも使われるのですが、幕末頃から神道では「奇魂」(くしみたま)と言って、神様が奇跡を起こしてくれる側面を説明していたりもします。
ということで「奇妙」と言い換える事で私は「奇跡が起きる前兆かもねぇ」と思うようにしているんです。そうなると街中の変なおじさんも有り難く見えてきたりしますし、ちょっと出会えて嬉しくなっても来ます。
こうなると、大抵の事が受け入れやすくなりますし、外を歩いていても気分が軽くなってくることが増えてきます。おまけに休職中、療養中ならサラリーマンでは痛勤やデスクに向かっている時間に雲の流れや路地裏の植木鉢の様子を観察しながら散歩するのも楽しくなってきます。こうなると不安に打ちひしがれている時間がドンドン減っていくのではないでしょうか。いや、こんな事を書いている私だって疲れが溜まったり、原因は良く判らないままに気分がグレーになってしまうことはありますよ。だって回復期だもの(笑)。それでも前向きになれる機会、チャンスは自分の考え方や受け止め方一つで増えてくると感じています。
カルトにハマる必要もありませんし、変なマニュアルを買う必要もセミナーを受ける必要もありません。また神社仏閣に日参する必要もありません(ただ、私は神仏好きなので、自宅や出先で感謝するようにはしています)。