調子のでない日に…うつの前兆症状みたいな

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何となく、発症前を思い出す

 うつを発症する前、コロナ禍という事でリモートワークが主になり、また全身全霊を掛けていた仕事がポシャり(これは、その一年近く前からポシャると進言していたことだったのだけど)、ちょっとした心の空白期間、いわゆる「燃え尽き症候群」という感じになっていた。で、本来なら次の企画を考えなければならないのだけど、PCに向かうことが億劫になり、必要なメールのやりとりや報告書を書くことためだけにキーボードを叩くような感じだった。
 これが既に「うつ」だったのだと考えたのは、クリニックで診断を受けて数ヶ月してからの事だった。それまでにもパワハラまがいの事や直前にあった無茶振りの仕事が主たる要因だと思ったのだが、その前から、既に心が傷んでいて、主たる要因と思っていたのは、あたかも殴り倒された後で馬乗りになってなぐりつづけられていたようなもんだったんだなぁ。というのが今の「実感」。

で、今日の本題

 昨日、5時半に起きてお寺のイベントへ向かった。それはとても嬉しいお誘いで、良い出会いもあったし、朝から良い散歩が出来たと思う。ただ、今日は暗い暗い曇天。そして12月並みの寒さ。曇天も寒さも得意ではない。何だか心の逃げ場がない感じがしてしまうから。それで、今の時刻が17:30。ずぅーっと「ボランティアの仕事もしなきゃ」「Blogも書かなきゃ」と思いながら、何も手がつかず、今の時間になってしまっている。途中「今日は休養日にしようか」とも思いつつ、でも何かやった「感」は味わいたい。それで、今になってようやくキーボードを叩いている。
 何となく、さっき書いた「燃え尽き症候群」の頃を思い出すような雰囲気。「あれも冬だったなぁ」と思っている。「燃え尽き症候群」と書いたのは、そのポシャった仕事だけではなく、それまでに食らっていた幾つかの出来事を合わせて起きていたんだと思う。これは以前のBlogでも書いているのだけど、その時点では「あの仕事がポシャるって言ってたのに、何で自分だけ会社からボコ殴りにされて、責任取らされてるんだろ?」なんて考えていた。
 つまり私がいつも書いている「早期発見・早期治療」という精神疾患に限らず、病気治療の鉄則に対して全く逆らって生きていた訳です。その燃え尽き症候群の時期から考えれば約3年。しばしば行く実家への経路にはその職場の最寄り駅がある。今でも、その駅に停車したり、あるいは通過すると肩に力が入り、動悸が起きてくる。そんな状態になっているのは、やっぱり「粘りすぎた」ということなんだと思う。
 もし会社勤めをしていて「最近、仕事に身が入らない」「心や内蔵から疲れている気がする」と思ったら、メンタルクリニックに行ってください。それに勇気が必要なら、もし奥さんや旦那さんがいれば相談してみてください。
 以前も書きましたが、正直、この段階で会社、特に上司に相談しても効果は無いと思います。効果のある上司なら、恐らく、そんな状態になるような仕事はさせないでしょうからね(😁)。

燃え尽きたのは自分の責任じゃない!と思おう

 もしメンタルクリニックに行く勇気が出なくても「燃え尽きたのは自分の責任ではない」と思った方が良いです。何故なら、会社員だからです。簡単に言えば、厚労省も自治体も健保組合も制度としてメンタルが痛むような仕事のさせ方が無くなるようにしています。自分の心が傷むような要因は職場か自分の責任と言うことになる。そこで自己責任と考えると、負のループが始まります。「やる気が出ないのはダメリーマンの証拠」「こんな事で挫けていたら、自分のプライドに関わる」とか考えれば、どんどん自己否定しか出来なくなくなり、私のようにPCを開くことが怖くなってきます。そうなったら、最後の勇気を振り絞ってメンタルクリニックに行く必要があります。私見ではありますが、これはうつ病患者として、精神障害者として強く勧めたい。
 私の場合、積み重ねられた鬱要因のほとんどが「やりがい搾取」と言う奴です。歳を重ねるに連れ、自分のキャリア、退職後の生活に不安が出てきます。そんな中で人参をぶら下げるように「これが上手く行ったら会社作ろう」だとか言われると、自分の未来が開ける気がして無理難題でも引き受けてしまった訳です。これを繰り返しているのは自分の無知の責任かもしれません。良く言われる「詐欺に引っかかるのは被害者にも責任がある」って奴ですね。でも、良く考えてみると詐欺で損害を受けるのは被害者です。逮捕はされません。逮捕されるのは詐欺師ですよね(😁)。
 だから自分を責めるのは止めておきましょう。サイトでも書いているのですが、鬱になって「自分が弱いから」「自分が不甲斐ない」と思うより、まずは「会社や上司のせいだ」と心の中で犯人にしてしまった方がよっぽど健全です。

但し、これだけは気をつけましょう

 私自身、契約期間満了で退職する時、人事から「荷物はどうしますか?」と聴かれ「取りに伺います」と答えました。「但し、現場の人間とは会いたくないので、人事部の一角で整理させてください」とお願いしました。そして「挨拶はどうしますか?」と言う質問には「信頼関係もありませんし、私に対して批判もあるでしょうから、形式的な挨拶は控えます。その気力もありませんし」とお断りしました。
 そこまで言ったのですが、その時点でも、今でも「恨み」みたいな概念は、当時の上司や職場にも、またそれ以前に「やりがい搾取」をしていた人たちにもありません。責任は今でもあると思っていますが、恨んではいませんね。全く。
 「恨む」というのを避けているのもあります。と言うのは

  1. 多分、相当エネルギー、気力を使うものだと思います。それなら、別のことに使った方が良い
  2. 恨むと言う感情が自己責任・自己否定と同じように負のループを生みやすい
  3. 寧ろ反面教師として考えれば、自分が成長できる材料になる

と思うのですね。先程も書いたように「定年」なんて言葉が思い浮かぶ年齢ですが、まだまだ勉強もしたいし、成長したいと思っています。昨日も5時半に起きて行ったお寺で素敵な79歳の職人さんと会話できました。今でも自分の職人としての腕を磨き、商品のアイデアを同業者組合の人たちと研鑽しているそうです。「昔のままでは中々難しいからね」と仰っていたんですね。79歳に比べれば私なんて若輩者です。その為にも「今日はボケっとしていたけどBlogは書けた」と自分を褒められるように、ここまで書いてみました。
 精神疾患になっても自分のせいでは無いし、人を恨む必要もない。そして人生オワタでも無い。伸び代を活かすかどうかは、自分の中にある自信。私自身、根拠なんてないですが「まだまだ伸びられる。成長できる。いや、している」と自信を持っています。それだけでも息をする価値があるというもんです。折角、国や自治体が税金を使って「働き方改革」→「自立支援」なんて様々な制度を作ってくれているんですから、生きなきゃ損ですよね。
 自己否定より、自分を褒めて自信を持って生きていきます。皆さんと一緒にね!
あー、少し調子出てきたぞ(😁)!

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