貴方は言霊を信じますか?

「言霊(ことだま)」って何よ?

  言霊とは

声に出した言葉、音声言語が、現実の事象に何がしか影響すると信じられ、良い言葉を発すると良いことが起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意された。今日にも残る結婚式などでの忌み言葉も言霊の思想に基づくものである。

wikipedia「言霊」より

 と説明されます。「忌み言葉」なんていうと受験生に「滑る」「落ちる」なんて言うのも禁句として知られていますよね。
 ただ、ここで話題にしたいのは、太字にしたところ声にした言葉が現実に影響するという部分です。

 こんな事を書くといきなりスピリチュアルな…この前は「カルトに注意」とか書いていたじゃないかとか書いてたよなとか言われそうですが、カルトに走らないためにも読んで頂けると嬉しいです。

こんな事を書く理由

 さて、先にこんな事を書く理由を先に。
 普段、私達は言葉を口から出さなくても思考として頭や心の中で使っています。この言葉がなければ中々思考ができないのが人間なのでしょうね。それだけに、言霊を信じると言う私からすると、普段から言葉は大切にしておかないと、時に言葉の力に負け、また時に言葉の力に゙助けられると考えるのです。だから、何か考える時、思い浮かべる時、できるだけポジティブな言葉で考えていれば、言葉の力をもらって思考がプラス方向になってきますし、逆にネガティブな言葉で考えていると思考がマイナス方向になってしまうんじゃないかと思うのです。
 これは他人と話すときでも同じで(多分、他の人の言葉で感じることも多いでしょうが)、明るい表現を使われれば、何となく聞きやすいですし、暗い表現だと深刻な問題として聞くようになりますね。聞きやすければ、また話したくなるでしょうし、逆に深刻な話は聞いた後で疲ればかり残ったりします。だから、自分にも他人にもできるだけポジティブな言葉で語りかける事が大切なのかなと思っています(それが私に出来ているかは別ですが…努力はしているつもりです 笑)。

伝統宗教における「言霊」

 神道や仏教に限らず、イスラム教やキリスト教にも、この「言霊」にまつわる部分が垣間見えると思っています。それは、それぞれの宗教の発祥と強く関連していると思われる言葉が世界各国にいる信者の母語に関わらず使われているからです。

神道では

 神道の場合、皇族の葬儀、例えば昭和天皇の斎場殿の義などで唱えられる「祭詞」では「大和言葉(やまとことば)」が使われます。現代の日本語ではカタカナ言葉や漢字由来の単語が含まれていますが、大和言葉は日本語の固有語だけ、それも古い言い回しが使われています。例えば神社のご祈祷でも「かしこみかしこみ〜」と始められますが、あれです(ただ、ご祈祷ではご祈祷の内容など大和言葉以外も含まれていますけれど)。そして、祝詞を奏上する神主さんは、紙に祝詞を書いて読み上げていらっしゃいますが、あの姿は単に儀礼的なものではなく、絶対に誤読しないようにという思いがあるそうです。それだけ、発する祝詞に意味があるということなのでしょう。

仏教では

 お経の一部やご真言というそれぞれの仏様にあるお経の一種です。例えば十一面観音様の場合「おん ろけい じばら きり」ですがこれを漢字で書くと「唵 嚕鶏 入縛羅 紇哩」です。意味、解りませんよね。これは、仏教の生まれた時代にお釈迦様の母国インドで使われていたサンスクリット語に漢字を当てたものだから、漢字の意味を解釈しても意味は通じてこないんです。
 同様な事は有名なお経「般若心経」にも見られます。私は残念ながらお経は全く読めないのですが、この般若心経だけは少しだけ判ります。冒頭は「摩訶般若波羅蜜」で始まり、これはインドから玄奘三蔵が般若心経を持ち帰って漢語訳したものです。そして、もう一つ知っているのが「ぎゃあてい ぎゃあてい はらそうぎゃあてい(羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦)」です。大学時代に中国語を少し嗜んだものとして…全く意味が分かりません。ただ、子どもの頃から葬式や法事などで聞いたまま「なんか、急にテンポも変わるし面白い」と言う印象ばかりが残っていましたから、何だろうと不思議に思っていたのです。般若心経は玄奘三蔵が訳したと言われてるのですが、玄奘三蔵はほぼ全文を漢語訳したのに、この部分はだけは訳さなかったのです。その理由は、この音、言葉は原文のまま唱えた方が良い!と考えたからだそうなんです。このように、祝詞と同様、言葉の持つ力を、そのまま伝えるべしと言う考え方は仏教にも当てはまるんですね。

キリスト教やイスラム教では

 さて、これを知った時の私…実は日曜学校にも通い、また入団していたボーイスカウトはカトリックの教会が運営していました。そのため、毎週のように聖書の言葉を聞き、「アーメン」と言い、何かと言えば「ハレルヤ」が入った賛美歌を歌ったものです。カトリックの神父さんはアイリッシュで英語を話す人だったので、子供の頃は英語なのかな?とか思ったりもしましたが、何処の国に行ってもアーメンもハレルヤも、そのまま変わらずに使われます。この言葉、実際にはヘブライ語です。ヘブライ語というと「イスラエル」と思われるでしょうし、ユダヤ教となります。が、キリスト教はユダヤ教からの分派で、イエス様も元々はユダヤの子として育った訳ですから、ヘブライ語は必須の言葉なのですね。仏教で言えばお釈迦様とサンスクリット語の関係と一緒です。

 ムスリムの人たちは、中東だけではなく、広く東南アジア諸国にもいらっしゃいます。インドネシアでは国教がイスラム教ですからね。でも、「インシャラー」などコーランに出てくるような神を賛美する言葉は、どの国の人でもそのままに使っています。
 このインシャラーはアラビア語です。預言者ムハンマドは今のサウジアラビア メッカで生まれました。だからアラビア語の「インシャラー」などがムスリムの間では一般に使われていることは自然な事な訳です。

という事は

 共通点は、どれも神や仏を讃美する意味を持つ事でしょうか。それだけ、言葉の力が強調されるべき点だと昔から考えられてきたと言う事なのでしょう。だからといって、神様・仏様に現代の日本語でお祈りしても通じると思ってますが…笑。

 となると、私たちが普段使っている言葉にも力はあると思うのです。会社の会議を思い出して貰っても解ると思いますが、ネガティブな言葉はネガティヴな空気を作り易いですし、ポジティブな言葉はポジティブな空気を作り易くします。(コレを逆にしてしまい人はパワハラ型上司かも…笑)

 そして、自問自答する時でも、ネガティヴな言葉で考えていると、心配事が湧き上がってきますし、出来るだけポジティブな言葉を使っうようにすると、良い閃きが出るようになります。と感じています。

 精神の状況を把握できるのは自分だけです。だから、自分を励ましたり、褒めたり、癒やしたりする時には、普通に自分が使う言葉で自分に語りかける事が良いのではないかと思います。自分の言葉の力を信じる事…これ、案外、私も受けている行動認知療法に近いんですよね…。

私、アファメーションが好きです

 これを一歩進めると「アファメーション」に行き当たります。これは簡単に言えば「ポジティブな自己暗示」です。行動認知療法でも、自分に起きた事柄を前向きに捉えましょう。と言われます。が、これをある種、自己暗示として繰り返して行くことで、一般には嫌なことも「チャンスや」とか「もしかして佳きことか?」と捉えられるようになります。
 以前、街中で感じの悪い人やアブナイ人を見たら「嫌だなぁ」と思っていました。が、これだって前向きに捉えるようにしています。それは「奇妙」と言い換えるんですね。「奇妙」と言うと「変なこと」や「不思議なこと」として理解されますが、私の中では違う意味で考えています。奇妙の「奇」は神道では「奇魂」と言って神様が奇跡を起こすことを言います。そして、こう書いているように「奇跡」だって、「奇」の跡な訳です。そして「妙」も本来は「世にも稀なる」と言う意味で、この後ろには良い言葉が続きます。例えば「妙なる調べ」「妙齢」などですね。どちらも、良い意味で使われる漢字なのですし、訓読みにしても良い言葉になっています。ですから「奇妙」な人に出逢えば「奇跡が起きるかも!」と考えているんです(笑)。
 さて、こうして考えていくと話は逸れますが、些細な事柄でも「奇跡」だと思える自分がいます。例えば「あ、無くしたかも」と思った物が出てくれば「奇跡だ」「神様ありがとー!」と思いますし、空を眺めていてレンズ雲のような珍しい雲を見つけると「吉兆や!」と嬉しくなってきます。嬉しくなってくると、歩いていても楽しくなってきます。
 で、話を戻してアファメーションですが、これをYoutubeで探すと山のようにチャンネルが出てきます。中には「宝くじが当たる」とか「巨富に恵まれ働かなくても良い」などと言うものもありますが、私感で言えば余りにもスピリチュアル的で、私自身は働いたら、働いただけの対価に恵まれるように!と思って社会復帰を目指していますから、あんまり興味がありません。それよりも「自己肯定」や「ポジティブに」とサムネで書かれているものを選んでいます。そうして選んだチャンネルの中には、瞑想の配信があったりもします。減薬ができていないと、15分ぐらいの瞑想でも寝落ちするものです。が、徐々にとか時々、最後まで瞑想し続けられれば自信にも繋がります(薬に勝った!って)。そして、アファメーションの中には、3時間や8時間と言う長いものもあります。これは、基本「寝落ち用」です。私が若い頃には「睡眠学習」というものがありましたが、寝ながら「前向きな言葉」を聞き続けるというものです。夜、眠る時にイヤホンでアファメーションを聞きながら、寝ていたりする私です。多少は効果あったかな?(笑)
 そして、もう一つが自分の口から発したり、メモに書いてみたりするというのも良いようです。
 そして専門医の方でも触れているところがあるので、紹介しておきます。
 アファメーション(こころ診療所吉祥寺駅前)
少なくとも、Youtubeなら(一部のチャンネルではアファメーションの最中に広告を差し込んでいるものがあるので…プレミアムにしたくなったりもしますが)基本、お金も掛からないし、毒になることは無いと思っています(スピリチュアル系を除きます)。
 そして、何より自分が自分を否定する事をやめる!と言う事が、如何に大切なのかが理解できるようになるんじゃないかな?と思えるんです。
 と言うのも、私自身が就業していた頃、常に感じていたのは「この案件(あるいはプレゼン)は自分にとっての試験だ!」とか、「こんな資料を作らされる意味がわからんが、ギャフンと言わせるような物を作ってやる」と自分に過剰なプレッシャーを掛け、或いは自分の中の怒りを呼び起こして仕事を続けていました。おかげさまで、業務成績は良かったと思っています。が、このような中で当然失敗することもあります。するととても酷い自己否定をするんですね。これが最後にはクリニックのお世話になるような状況に追い込んでいったわけです。
 こうして考えていると自己否定は何も産まないけれど、自己肯定は何かを生む可能性…最小限でも自分を大切にしようという感情を持つことができます。こう書くと「利己主義」に見えるかも知れませんが、そうではありません。言いたいことは自分を大切にできないと、他人に対して本当の意味で大切に出来ないんじゃないかと思うのです。逆説的に言えば、他人を大切にしようとして、自己犠牲ばかりに走ってしまってドンドン自分を追い込んで行くんではないかと。私がそうでした。お客様、特に理解をして頂いたお客様の期待に沿うように活動をすると、どんどん自分の時間が無くなります。本来なら「その日は無理です」「家族との大切な時間です」とか言わなければいけないのに言わなかった。結果、寝る時間も惜しみ、自分を追い込んでしまった訳です。そして、その結果として、最後はお客様の思うような仕事を出来ずにリタイヤしなければなりませんでした。これでは元も子もないという事ですよね。
 だから、自分を大切にすることで、本当の意味で他の人を大切に出来るんじゃないかな?と思う次第です。
(あーーーーーー、長くなった)

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